説教要旨 2026/3/1

「悲しみの祈り」

マルコ14:32~36           井上聡師

●最後の祈り

最後の晩餐の後にイエスと弟子たちが訪れたゲツセマネの園は、静かに祈るためにはうってつけの場所でありました。しかしイエスがこの時ささげた祈りは通常の祈りとは異なり、死を目前にしてささげた最後の祈りでもありました。

●深く恐れもだえる

主イエスは、弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれました。そして、このときイエスは深く恐れもだえ始められました。この事が意味することは、イエスがまことの人であり、また、弱さを持つ人間そのものであったという ことです。イエスは、ゲツセマネの園において明確にご自分の死を意識し、このあと十字架で苦しみ、死んでいくということを知っていたからこそ、深く恐れ、もだえ始められたのです。一人の人間として、イエスもまた死ぬことへの恐怖を否が応でも感じないわけにはいきませんでした。

●死ぬほどに悲しい

そして主イエスは弟子たちに言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい」 (14:34)主イエスは極限状態にまで追い詰められている自分をはっきりと自覚しながら、そのように言われるのです。ここを離れるなということは、私を一人にしないで欲しいということであり、悲しみの時に人が感じるのは自分が孤独であるということです。また、目を覚ましていなさいというのは、私の力になって欲しいという悲痛な叫びでもありました。しかし弟子たちがやがて眠りに陥り、ここから逃げ出していくことをイエスは知っておられたのです。

●悲しみの祈り

それから、主イエスは、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、 わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(14:36)

この杯とは、第一に迫り来るむごたらしい十字架刑による死の現実を意味します。また第二にこれが全人類の罪を背負った死であることを意味します。こうして主イエス・キリストは、罪人である私たちに代わって神の怒りの杯を飲まれることになるのです。

●みこころを求める

主イエスの祈りは、十字架の痛み、悲しみを正直に吐露する祈りでした。同時に主イエスの祈りは、神のみこころを求める祈りでもありました。それは、たとえ答えが与えられなくても、自分には意味が見出せなくとも、みこころを成されるお方にゆだねる、神のご計画に従う祈りであります。イエスは父なる神を信じ、信頼した上で、祈りの中心に私を置くのではなく、祈りの中心に神を置く祈りをささげられました。私たちもまた悲しみの祈りをささげる時があります。しかし、そのかたわらで、主イエス・キリストもまた祈っておられることを忘れないでいたいと思います。主は私たちのためにとりなし、祈ってくださる救い主なのです。