説教要旨 2026/1/18
「主に祈る」
第一サムエル7:1~6 井上聡師
●恵みを受け取るための祈り
イスラエルが神の助けを受けた時に建てたエベン・エゼルの石は間違いなく、神の恵みのしるしであります。イスラエルの民が恵みを受け取る上でそこにあったものは、主を慕い求める心、主に立ち返る決断と行動、そして祈りであります。祈ることによって、イスラエルの民は恵みを受け取るための備えを成していくのです。今日は祈りについて3つのことを心に留めていきたいと思います。
①祈りとは自分が孤独ではないと認めること
祈りとは神様に向けられるものであり、神という祈りの対象がいて、初めて成り立つものです。祈りは神と私たち人間をつなぐパイプのようなもので、神とつながることによって、私は決して一人ではない、孤独ではないのだということを体験するのです。
さらに祈りは、人と人とを結び合わせ、つないでいくものでもあります。誰かのためにとりなし、祈ってくれる人がいる、自分のために祈ってくれる人がいることは、どれほど大きな力となることでしょう。祈り、祈られることで、自分は孤独ではないと認める事が出来るのです。
②祈りとは自分に何もないことを認めること
自分の心が何かでいっぱいだと感じている時、私たちは祈ることをしません。しかし、魂が飢え渇いており、自分は何も持っていないと思える時、人は祈りを必要とするのです。
イスラエルの民はミツパに集まり、自分自身を見つめ直し、自らの魂を見張る事を必要としていました。彼らはそこで「水を注ぐこと」と「断食」を行いました。一度注げば取りもどせない水と、腹を空っぽにする断食を通して、自分たちはもう空っぽであり、何も持っていないということを示したのです。自分が空っぽであることを認める時に初めて、私たちは心からの祈りを献げる者となれるのです。
③祈りとは自分が何者であるのかを認めること
祈りにおいて神様の前に出て行く時に、私たちは自分のありのままの姿をさらけ出すことになります。「私たちは主に対して罪を犯しました」という悔い改めの祈りは、自分が何者であるのかを知るということであります。
人間は、顔を隠すためのマスクをつけるだけでなく、心までも隠す生き物です。本当の自分をさらけ出す恐怖や不安がありますが、神様はありのままの私を受け入れてくださるお方です。祈りの場において、私たちは心をおおっているマスクを外し、神の愛と赦しの元で心を素顔にすることが出来ます。神様は私たちを責めるためではなく、愛するために、祈りの場へと招いておられるのです。
●神の恵みを受け取る
自分たちの罪と弱さを認め、神様の赦しと助けを求める時、そこに神の恵みが豊かに注がれていくことになります。空っぽになった自分を神の前に差し出すからこそ、神の力が与えられ、神の恵みが注がれていくのです。祈ることによって神に押し出されていく、そんな一週間を歩んでいきましょう。
