説教要旨 2025/12/7

「光をあかしする」
ヨハネ1:6~9          井上聡師

●みことばへの沈潜
ダイビングの醍醐味は潜るたびに違った景色が見えることにある。私たちが味わう聖書のことばも、ダイビングと似ています。みことばに沈潜することで、毎回違った景色が見えてきくるのです。今日、みなさんとご一緒に聖書のことばの中へ深く潜ってみたいと思います。

●ヨハネという人
神から遣わされたヨハネが現れました。なぜ、このヨハネが、神から遣わされたのでしょうか。ヨハネは光について証言する証人として、光について語り、光をあかしし、光を宣べ伝えることを使命としていました。

ここで考えたいのは、ヨハネという人は本当に必要だったのだろうか、という疑問です。なぜなら、1:9にすべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていたと書かれているからです。太陽の光のように明るい光を放つものは誰が見ても明らかなことであり、わざわざ、知らせる必要はないはずです。しかし、ヨハネは光の到来について宣言し、証言し、人々に伝えました。
なぜ、ヨハネのあかしが必要だったのか。それは、人々が光を見ることが出来なかった、あるいは光が輝いていることに、気がついてなかったからであります。ヨハネがあかししたのは、「まことの光」であり、それは神の光であり、救い主イエス・キリストの光でありました。
人々は、まことの光を見ることが出来ませんでした。それは、人々の心をやみが覆っていたからなのです。1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(新改訳聖書)は、暗闇は光を理解しなかった(新共同訳聖書)とも訳されます。
人間の心を覆う闇は、まことの光、神の光を理解することも、見ることも出来ないのです。最初のクリスマスにおいてベツレヘムの空に輝く天使たちの光や東の博士たちを導いた星の光にも、多くの人々は気がつきませんでした。救い主イエス・キリストの光はすべての人を照らすまことの光であるが、人々は知らず、気がつかず、理解することが出来なかったというのです。

●光をあかししてくれた人
だからこそ、光をあかしする人が必要なのです。私自身は、光をあかしする人に導かれて、初めて自分の信仰をはっきりと自覚し、イエス・キリストの光が本当は見えていなかったことに気づかされました。同じように今でも、まことの光をあかしするヨハネが必要とされています。

クリスマスに生まれた救い主、イエス・キリストはまことの光であります。この光を指し示し、この光をあかしする人が必要なのです。バプテスマのヨハネが光をあかししたように、私たちにも光をあかしすることが出来ます。私たちはまことの光を見ました。まことの光に照らされ、救い主を信じる者とされました。光を見た者だけが光をあかしすることが出来るのです。毎年祝われるクリスマスは、まことの光として来られた主イエス・キリストをあかしする機会でもあります。全世界で、光をあかしする者が起こされることを私たちもお祈りしていきたいと思います。