説教要旨 2025/11/30
「この方は」
ヨハネ1:1~5 井上聡師
●人であり、神である
クリスマスに生まれたキリストはただの人間ではありませんでした。母マリヤから生まれ、私たちと同じように成長する姿は確かに人間そのものでありますが、人であると同時に神であります。とりわけヨハネの福音書は、イエスという人物が神である、そのことを繰り返し、私たちに伝えようとするのです。
ヨハネは、救い主が①ことばであり、②いのちであり、③光であったということを教えてくれるのです。
●救い主はことばであった
人間が生きていくためにことばが必要であると言われます。同時に私たちは神のことば必要とするのです。
世界の創造の始めにことばがありました。そのことばは神と共にあり、いや、ことばそのものが神であったのです。クリスマスに生まれた救い主はことばであり、神ご自身であったとヨハネは紹介します。
救い主は神のことばを私たちに与えてくれます。神のことばは赦しと愛のことばであります。また救い主は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と言われます。神のことばが私たち生かすことばであります。
●救い主はいのちであった
初めに神は何もないところからことばにより無から有を造り、創造されました。すべてものは、ことばによって造られました。このことばこそが救い主であるとヨハネは教えてくれるのです。
人間は神によって造られた被造物であるため、いのちを造ることだけは出来ません。しかしクリスマスに生まれた救い主は、いのちを造り出すことが出来るのです。
この方にいのちがあった、とヨハネは証言します。そのことばは神のいのちでした。人はパンだけで生きることは出来ません。私たちを本当の意味で生かす事のできるいのちがなくてはならず、そのいのちを与えることが出来るお方、それが救い主であります。
●救い主は光であった
この光は人間を照らす光と言われます。なぜ人を照らすのか。それは人間を覆う闇があったからです。いや、私たち自身が闇を抱えているからであります。どれだけ私たちの周りが明るかったとしても、私たちは言いようのない闇を内に抱えています。心の部屋には、誰にも見せたくない過去の失敗や、罪に縛られた自分がいるのです。
しかし、クリスマスに生まれた救い主の光は、どんなに暗い心のやみさえも照らす光なのです。この光は、人間の罪やみにくさを責める冷たい光ではなく、愛の光であり、赦しの光です。醜くゆがんだ自分や傷だらけの心を抱えた私たちを愛し、どんな人をも赦し、癒し、包み込む暖かい光であります。決してやみに打ち負かされることのない輝く光のゆえに、私たちは希望を抱き、信じて前に進むことが出来るのではないでしょうか。
暗い心は私たちから希望を奪い、絶望に陥れる力を持っています。でもだからこそ、私たちは救い主を待ち望み、その誕生を心から喜び、祝いたいと思うのです。

