説教要旨 2025/11/23

「収穫のための働き手」

マタイ9:35~38       齋藤五十三師

イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされました。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない…だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎える、神の国の収穫です。これを聞いて日本の多くのクリスチャンがまず思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。私たちはこれをなかなか実感できないのです。しかし、これは私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。実はここは、原文では「神ご自身の収穫」となっています。私たちの実感ではなく、神の目で見れば、収穫は多い。キリストご自身もそれを実感して、口にされたのでした。

イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の収穫のために、備えられている人々が多くいます。たとえばイエスには、「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ、死んだ会堂司の娘、長血の難病を十二年患う女性との出会いがあります。そんな面倒くさいと思われる彼らが救われ、神の国の「収穫」となるのです。イエスは言われます。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と。

多くの人がキリストを必要としています。羊は本当に弱く愚かで、しかも頑固という面倒くさい動物だそうです。そのように「魂の羊飼い」であるイエス・キリストを必要としている人々が多くいます。

私たちには、この「イエスの心」があるでしょうか。私は、台湾での開拓伝道や現在の教会による地域支援(食糧配付や学習支援)に携わる中で、初めの頃は心が冷めていた者です。でも、それが、いまやひと月に約200名の方々が地域から教会に足を運ぶ働きにまで育っている。年々、目を見張る思いです。つまり、収穫は間違いなく多いのです。

しかし、そこには慢性的な課題があります。「働き手が少ない」。今、日本の教会は牧師不足に直面しています。さあ、どうすればいいのか。

38節「だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」。まず、為すべきは祈りなのです。イエスは「あなたが出て行って働き手になれ」とは言わなかった。イエスが求めておられるのは、イエスと同じ心を持った働き手です。そのような働き手は「祈り」によらなければ起こらないのです。必要なのは、羊飼いのいない羊を見て、深く心を痛める、「イエスの心」を持つ働き手です。この働きは、収穫の主の働きであり、私たちがすべきことはまず「祈り」です。主は、私たちに耐えられない重荷を負わせることはなさらない。祈ってただ、主の御業を見つめ、収穫をともに喜べば良いのです。