説教要旨 2026/3/15
「逃げてしまった」
マルコ14:43~52 井上聡師
●逮捕
本日の主題は、「逃げる」ということであります。
イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現れました。剣や棒を手にした群衆もいっしょでした。イエスがどこにいるのかを暴き出し、群衆の手に渡すこと。あらかじめ決められていた手順どおり、まずはユダが近づき、そしてイエスに口づけするのです。瞬く間にイエスが目の前で捕らえられていきます。そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落としました。しかし、主イエスは一見、勇敢とも思えるそのような弟子の行動を決して喜ぶことはありませんでした。
●恐怖
14:49 「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」 イエスのこの言葉を聞いて、弟子たちの間に恐怖が沸き起こります。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され」なければならないと主イエスの言われたとおりのことが起こったのです。弟子たちは、たちまち大きな恐怖に包まれ、とっさに反応するのです。
●逃げてしまった
するとみながイエスを見捨てて、逃げてしまった。イエスが殺されるなら、自分も殺されてしまう。弟子たちは瞬間的に危険を察知して、そこから逃げ出したのであります。危険を回避し、より安全な場所へ避難をすること。それはある意味、正しいことでもありました。生存本能に従い、彼らは逃げ出したのであります。でもそれが弟子たちの限界でもありました。
さらにある青年が、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとしました。すると彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げだしたのです。恥ずかしさよりも、恐ろしさに負けて、逃げ出した青年を一体誰が笑い飛ばせるというのでしょうか。
●逃げなかった
弟子たちも、一人の青年も命を守るために逃げ出したのです。しかし、ただ一人、このゲツセマネの園から逃げ出さなかった人がいます。それは主イエス・キリストでした。イエスは逃げることは可能ではあったのだけれども、主イエスは逃げなかったのです。それは、弟子たちのためであり、また私たちのためでありました。
●救いのために
聖書のことばが、神のことばが実現するために、主イエスは逃げ出さなかったのです。神の計画を遂行し、神の救いのわざをもたらすために、主イエスは逃げ出さなかったのです。人は危険にさらされた時に、自分の命を守るために逃げ出すしか出来ない者です。しかし、そんな人間の限界を超えたところに主イエスは働かれるのです。逃げ出すしか出来ない私たちに代わって、イエスはゲツセマネに留まってくださるのです。私たちを罪の縄目から解き放つためにイエスはとらわれの身となります。私たちに真のいのちを与えるためにイエスはいのちを差し出されます。こうして、聖書のことばが実現し、神の救いの計画が成就していくのです。主イエス・キリストこそが私たちの救い主であることを、今日も、心に刻む者でありたいと思います。
