説教要旨 2025/10/19

「信じる者には」

マルコの福音書9:14~29     井上 聡

◆信じる者に与えられる希望

山の上では、光輝く栄光の姿に変えられた主イエスの姿が見られました。ところが山を下ってきますと、山の上とは、全く対照的な出来事が繰り広げられている。恐怖と痛みに苦しむ混乱した人々の姿がそこにあったのです。

 この物語の中心は、信仰の問題に関する主イエスとのやりとりこそが、今日私たちが注目すべき主題であります。

①理由の分からない苦しみがある

一人の父親とその息子が物語の中心となります。息子は口をきくことが出来ません。さらに発作のようなものが起こって倒れ込み、歯ぎしりをして、泡を吹き、体が硬直するということを繰り返していると言うのです。この息子は理由も対策も立てられないまま子供の頃からずっとこの症状に苦しめられていると言うのです。私たちは、理由が分からないということに恐れや不安を感じます。

②答えられない祈りがある

弟子たちの失敗の原因は、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません」というイエスの言葉に説明されます。私たちはここでとても大事なことに心を留める必要があると思います。それは答えられない祈りがあるという事であります。祈りとは結果を出すための便利な道具ではありません。祈りとは神と人とを結ぶ大切なチャンネルであり、祈りによって私たちが神様との関係を養うためのものであります。ですから大切なのは祈りの結果ではなく、神様との関係にあります。

③信じる者に与えられる希望がある

愛する息子が霊にとりつかれ、何をやっても、何年待っても、救われない、癒されることもない。そのような中で父親の信仰や祈りは弱り果てていたのかもしれません。だから、父親は言うのです。「もし、おできになるものなら」と。人間は絶望を繰り返す時、心が萎えるのです。イエスは言われます。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

父親はこの時、自らの不信仰を自覚させられます。不信仰とは信仰が不完全な状態を意味するのです。信じたいのに信じ切れない。不完全な自分の信仰を完全なお方の前にさらけ出すのです。この悲痛な叫びこそが父親の祈りでもありました。

イエスは悪霊を追い出し、息子の手を取って立ち上がらせました。息子だけでなく、父親のこともイエスは立ち上がらせました。

祈りは、結果ではありません。信仰とは、問題解決の道具ではありません。私たちに与えられた希望。それは私たちが信じるお方と共に生きることです。私たちが信頼するお方に手を取って起こしてもらうことです。私たちの信仰は不完全なものであるのかもしれません。しかし主はそんな私たちの叫びに耳を傾けそんな私たちの手を取って立ち上がらせくださるのです。