説教要旨 2025/11/9
「みなに仕える者」
マルコ9:30~37 井上 聡
●今日見ていく聖書箇所には、主に3つの事柄が書かれています。
①十字架の予告(受難)
②誰が一番偉いのか(論争)
③みなに仕える者(信仰)
これら3つの出来事を結ぶキーワードがあります。それは「受け入れる」という言葉であります。
●十字架の予告
さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。 イエスは、人に知られたくないと思われました。 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できませんでした。 また、イエスに尋ねるのを恐れていました。 彼らは、尊敬し、慕い求めるイエスが苦しむことを受け入れがたいことだと感じていたからではないでしょうか。
●誰が一番偉いのか
イエスは、弟子たちに質問されました。 「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていました。それは、だれが一番偉いかと論じ合っていたからです。
人間関係というものはいつでも複雑なものです。 私たちはある特定の集団の中で誰が上で誰が下かということが、どうしても気になるものではないでしょうか。 イエスの弟子たちの間でも、誰が一番偉いのか。誰が上で誰が下なのか。そういうことが密かに話し合われていたというのです。
人間というのは相対的な生き物だと言われます。 すなわち人と比べて自分の立ち位置というものを知ろうとするということです。 イエスの弟子たちもまた、このような比較とか競争といったものから、完全に自由になれていたわけではなかったのです。
●みなに仕える者
ところが主イエス・キリストは、この時はっきりと弟子たちに言うのです。一番偉い者はみなに仕える者である。イエスは言われました。 「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」「しんがり」とは、一番後ろにつく人を指す言葉であります。 戦場において、部隊の最後尾につくのが、しんがりの役目です。
さらにイエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らに言われました。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。」イエスが言われたことの意味は、弱く小さな者、取るに足りないと思われている者の存在を通して神へとつながる道が与えられるということなのです。
●このあと弟子たちはしんがりではなく、真っ先に逃げ出す者となっていくのです。しかし、主イエスはご自身がしんがりとなり、一番低い所まで下りてくださるのです。十字架に架けられ殺されたばかりか、墓にくだり、よみにまでくだる者となってくださったのです。主イエスこそが、みなに仕える者となられた救い主です。私たちが、無償で罪の赦しと永遠のいのちを受け取る根拠がここにあるのです。

