説教要旨 2025/11/2

「人生のエンディングのために」

ヨブ1: 21                井上 聡

◆今日、私たちは召天者記念礼拝の時を迎えました。人生において、喜びと悲しみという感情は、必ず誰もが体験するものであります。命が生まれた喜びがあり、しかし命を失う悲しみというものも必ず体験しなければならないのです。本日は召天者という言葉に込められた意味について考えてみたいのです。召天者という言葉には、2つの意味があります。召天者とは①すでに天に召された者である②これから天に召されていく者である。

◆すでに天に召された者

召天された人を思う時にまず「失う」という言葉が真っ先に思い起こされることでしょう。「器は欠けた時にその価値が分かる」と言われます。私たちにとって、愛する家族や友人、そして毎日あたりまえのように顔を会わせている人々。それは、このご飯茶碗のようなものかもしれません。つまり、失った時にその存在の大きさと価値を実感するということであります。人生は失うことの連続です。かけがえのないものを失うことには、代わりがきかないのです。その悲しみは、生涯心の中にとどまり続け、私たちの人生の一部となっていくものではないでしょうか。

すでに亡くなられた召天者のことを思う時、失うということと同時にもう一つの面に目を向けてみたいと思うのです。すなわち私たちは失ったものを取り戻すことはできませんが、与えられたものを感謝して受けとめることはできるということです。

いのちはすべて、神の御手の中にあるものです。愛する者との思い出、愛する者といっしょに体験したことは永遠に私たちのものです。今日のこの礼拝では、喪失の悲しみと同時に神さまが与えてくださった、思い出という贈り物に心を留める時としたいのです。

◆これから天に召されていく者

人生の終わりの活動のことを終活と呼ぶわけですが、人生の終わりを考えることこそが、今を生きる私たちに必要なものであると誰もが気づき始めています。私たちは家族に迷惑をかけたくない、悲惨な状況に陥りたくない、いつまでも自由に暮らしたい、そして最後まで人としてのプライドをもって生きたいと願う者です。

しかし、聖書は私たちが裸で母の胎から出て来た。この世を去る時もまた何ひとつ持って行くことのできるものはない。そして人生とは失うことの連続だと言うのです。そんな私たちであるからこそ、人生のエンディングのために備えることが必要なのです。

そのためにできる最大の備えは、今日というこの日を、今というこの時を、精一杯生きる事なのです。私たちは与えられたものに感謝し、失ったものは神にお返しします。そして、私たちは今日というこの日を精一杯生きていくのです。

最後に一つの詩を紹介して終わりたいと思います。

「すばらしい人生」(作者不詳)

あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい。