説教要旨 2025-10-5
「御姿が変わった」
マルコ9:2~13 井上聡師
◆マルコ9:2~13は福音書のターニングポイントとも言える箇所であります。ここからキリストの奇跡の物語が、キリストの受難の物語へと話しが大きく転換していくのです。
◆イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれました。すると彼らの目の前で主の御姿が変わったのです。その御衣は非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さでした。また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていました。
◆彼らが目にしたのは世にも不思議な出来事であり、驚くべき光景でありました。弟子たちがまず感じたのは恐怖でした。実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのです。恐怖ゆえに饒舌になっていたのです。そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がしました。彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えませんでした。この出来事はよく変貌山の体験と言われるものです。この変貌山の出来事から、私たちは2つのことを心に覚えます。
①私たちには分からないことがある
山を降りながらイエスは弟子たちに人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならないと特に命じられました。イエスは彼ら3人の弟子たちが変貌山の出来事の意味を理解していなかったからこそ、話してはならないと強く命じられたのです。彼らは、主イエスがこれから十字架に架けられ殺されていくことを信じることも理解することもまだ出来ていません。それでも弟子たちは主に従い通しましたし、主もそんな彼らとともに歩んでくださいました。私たちにも分からないことが多くあります。それでも主を信じていく、それでも主に従っていくことができます。分からないけれども主を信じ、主に信頼して前に進むことが出来るのです。
②主は私たちのために変えられた
御姿が変わったと書かれていますが、ここで注目したいことは、この変わったという言葉が受動態だということです。つまり彼らの目の前で主イエスの姿が父なる神によって変えられたという意味なのです。神のひとり子であるイエスが人となられ、十字架に架けられ、殺されていった。墓の中から復活し、死からよみがえられた。すべては父なる神によることでした。主イエスが変えられた。それは誰のためなのでしょうか。私たちのためです。神はイエスの姿を白く光り輝く姿に変えられました。それは、弟子たちのためであり、また私たちのためにそうしてくださったのです。主イエスは、生まれる時も死ぬときも、自分が望んでそうなったのではありません。父なる神の御心を受け入れ、変えられていったのです。主イエスの人生はまさに受動態の人生でした。神によって導かれ、神によって変えられ、神のご計画に身をゆだねた人生であったのです。私たちも主に導かれ、主に変えられ、主にお任せする生き方、そのような信仰の歩みをさせていただきましょう。