[日本同盟基督教団 取手聖書教会]
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私たち、見つけました(教会員のあかし)

2009年 5月24日更新

平安で充実した人生

 私は、比較と競争の世界に身を置いて、勝ち抜くことが意味のある人生との価値観で39歳まで地図も道標もない中、がむしゃらに努力していました。 しかし、人は意識しようがしまいが、一歩一歩「死」に向かって歩んでいるのに、いくらお金や社会的地位を得られても、それだけで良いのかとの思いで悩み聖書を読むようになり、イエス・キリストに出会うことができました。 イエス・キリストを私の人生の基としてから目が開かれいろいろなことが分かるようになりました。 比較と競争で自分が優位に立つと心の中で傲慢になり、劣勢になると心の中で卑屈になったり、その人が失敗するよう願ったりする過去の不自由で不健全な自分がはっきりと分かりました。

 あれから20年、59歳となった今思い返すと、あのときイエス・キリストに出会えて本当に良かった、なぜなら、私なりに人生の意味が分かり、聖書が私の人生の道標となりあれから平安で充実した人生を送り続けていられるからです。

(A.T.、男性、59歳、会社員)

私の魂を熱く抱きしめてくれたのです。

 人は歴史の中で生まれ、歴史を教えられ、信じて生きています。世の情報は人をひきつけて、また人は信じています。

 自分の体験ですが、高校3年のときに東京の地元のキリスト教特別伝道集会に参加しました。何回目かの説教にひきつけられました。 ある日牧師さんが「万物の創造主は神であり、人間は似せて造られましたが、人は神に罪を犯しています。神の栄光が受けられません。自分を思い起こしてみてください。」と言いました。 そう言われてみれば自分には多くの罪がありました。その夜自宅で祈りました。 「私は罪を犯しています。許してください」と。そのとき神様と出会ったのです。私の魂を熱く抱きしめてくれたのです。 これは私の自宅で、祈りの中で起きた事実です。

(N、男性、66歳)

神の導き

 実は、教会員の方や教会とは無縁の友人・家族から「どうして教会に行こうと思ったの?」と聞かれるのが苦手なのです。 何故ならきちんとお答えできないからです。 悩みや不安、仕事の精神的な疲れ、私にもそういったものはありましたが、教会に導かれる理由に挙げるほどのことではありませんでしたし、また、そのとき直接的に私を教会へ誘ってくれた人もいませんでした。 教会に行った理由は「神様の導き」と答える他ないのです。

 自分なりにそれらしい答えを考えてみたことは何度かあります。結果、行き詰まりました。当然です。 そしてその度に感じるのが「どうして『神様の導き』と思ったことに、自分の考えを無理矢理当てはめようとしたのだろう」ということ。 導きに、人間の解釈など付けられる訳がないのですよね。私たち人間がしばしば犯してしまう罪の一つだと痛感させられます。 私たちは「小さな」人間であるということをいつも自覚しないといけません。

(K.S.、女性、29歳、大学職員)

あなたはそのままでOK

 何度か教会には来ていましたが、いつも母子室で赤ちゃんに乳を飲ませながら、子供の相手をしながらでまともに礼拝に参加する状況ではなかったので、もう少し落ち着いてから、聖書をきちんと読めるようになってから洗礼を受けようと思っていました。

 そんなある日伝道会で「子どもを愛し、心配し、自分の命を捨ててまで守ろうとするお母さんのように神様はあなたのことを愛してくれています」というメッセージを聞きました。 病人がお医者様に行くように、どうしようもない自分のままでも、今すぐに神様のもとに飛び込んでいいのだと知りました。 『あなたはそのままでOK、大丈夫だよ。私があなたを創ったのだから』 山田牧師先生のメッセージを通して、神様はいつもこう私に語りかけてくださいます。

(M.T.、女性、49歳、ピアノ講師)